
職場のモラハラ上司・同僚が反省することはあるのか?部下にモラハラしてしまう心理と更生の可能性を解説

「上司の言動がきつすぎる…」「毎日職場に行くのが憂うつ…」「自分だけ扱いが違うような気がする」そんな悩みを抱えていませんか?
上司や同僚からのモラハラの言動は、精神的な負担を大きくし、仕事のパフォーマンスや健康にも悪影響を及ぼします。
モラハラ被害に遭っている方の中には「モラハラを辞めさせたい」,「自分の言動を反省してほしい・・・」と考える人もいらっしゃると思います。
今回は、上司や同僚がモラハラ行為を反省することがあるのかについてを詳しく解説します。
「これってモラハラ?」と感じたら、ぜひ最後まで読んで対策を考えましょう。
モラハラ加害者は自分を省みることができない
人間は誰でも怒った時に、頭に血が上り、相手を傷つけることがあります。でも、そういった場合、普通の人であれば「そんなことを言わなければ良かった」と後で後悔したり、反省したりするものです。
しかし、モラハラの加害者はそんなことはしません。自分が常に正しいと思っているからです。モラハラの加害者が、自分の発言を省みることなどありません。
少しでも間違っているなどと指摘されれば、むきになって攻撃してきます。しかも、全く別の話をもってきて、完全に話をすり替えます。そんな話をしていたのではないのに、いつのまにか別の話にすり替えられ、肝心の話は出来なくなり、肝心の話を曖昧にしようとします。
そして、被害者がいつのまにか悪者にされてしまいます。とにかく自分は悪くない、お前が悪いといつも責任転嫁を図ります。
モラハラ加害者は成長の過程で「自己中心性」を克服できなかった人

モラハラ加害者の「なんでも人のせいにする」「相手の世界や経験を否定する」という性質は、「自己中心性」から来るものだと考えられています。
自己中心性とは
ピアジェという発達心理学者が提唱した概念。自分と他人を明確に区別できず、他者の視点を理解できない性質のこと。自分とは異なった視点があることを知らず、自分と同じ考えや価値観を相手を持っている(持つべきである)と思う。これは、前操作期(おおよそ2歳~7歳)といわれる発達段階にある子の特性です。
「自己中心性」という性質は「あの人自己中(ジコチュー)だよね」等と言う時の「自己中心的」な性格とはまた違います。自己中は、他者の視点は理解していて、そのうえで”自分さえ良ければ他人はどうでもいい”と考える状態です。「自己中心性」は、発達の正常な段階であり、幼い子どもなら誰でも持っている性質です。
成長するに従って、「脱中心化」・「自己中心性からの脱却」が起こり、人はしだいに他者の視点を理解できるようになります。そうして、社会や現実と折り合えるようになるとされています。
モラハラ加害者は、育ってきた環境や自身の気質などが影響して、発達の過程で「脱中心化」ができていない状態であると考えられています。
自分の思い通りにならないことがあることを認め、自分と他者に境界があることを認めていく作業は、大きな葛藤を引き起こします。思春期の苦しみや葛藤がこれにあたります。誰もが悩み、傷つき、その苦しみを乗り越えて、人はバランスよく大人に成長します。
モラハラ加害者は、この葛藤を乗り越えることができずに、モラハラというとても楽な方法に逃げ続けてしまった人であるといえます。
一見、社会ではうまくやっているように見える、外面がいい人もいるのはなぜか

モラハラ加害者には「外面がいい」と周囲からの評判が良い人が多いです。そのせいで被害者が「あなたがわがままなんじゃないの」「あんなにいい人がそんなことするはずないじゃない」等心無い言葉を投げかけられてしまい、周囲に理解してもらえず苦しむことがあります。
加害者も、社会人として社会に適応している自分でいなければならないことを自覚しているため、外の世界では大人として「自己中心性からの脱却」といった課題をクリアしているかのようにふるまいます。
外や目上の人の前では人当たりの良いふるまいをして見せることはできるけれども、幼児的で、自分中心に生きる心地よさは決して捨てません。
モラハラ加害者は、ターゲット(被害者)を「人」としてみておらず、自分の葛藤処理の「道具」として見ていますから、自分の世界=部下や同僚の前に戻ってくると、被害者という葛藤処理のための「道具」に対してモラハラをして、自分を甘やかすのです。
モラハラ加害者の「二度としない」「反省している」は信じていいのか?

別れるというと「もう二度としない」とすがられる
モラハラ被害者「それはモラハラだ。」「パワハラとして通告します!」加害者に告げると、加害者は「もう二度としない」「俺が悪かった。反省する。」等といって泣いてすがることがあります。
被害者は、「本人も反省しているようだし、もう一度信じてみようかな・・・」と心が揺れてしまい、別れることが出来ず、結局は繰り返されるモラハラに苦しめられてしまいます。
加害者の「反省」は簡単に信じてはいけない
被害者がいう「もうしない」は、「○○ばかりしているとおもちゃを取り上げるわよ!」と言われた小さな子どもが、おもちゃを取り上げられたくないから親の言うことを聞くのと一緒です。
子どもがしているような本能的な行動であり、ターゲットが離れていくことをさけるために、モラハラをやめると言ってみる場合が殆どです。
モラハラ加害者は、どうして相手が自分から離れたがっているか、自分にどのような問題があるのかを根本的には理解していません。
モラハラ加害者は、自分と向き合う辛さから逃げるために、自分の問題をこれまでずっと置き去りにしてきた人ですから、自分の問題に気づくことができないのです。
今まで変われるチャンスがいくらでもあったのに、変わらなかったから今の状態がある

モラハラ加害者には、これまでも自分と向き合うべき問題にたくさん出会い、それを乗り越えて大人として成長していく、自分を変えていくチャンスがいくらでもあったはずです。
しかし、加害者はその度に、自分の心の問題に向き合うことから逃げてしまい、それを被害者になすりつけ、心を守り、高揚感を得てきました。
加害者が幼少期から染みついた葛藤処理方法を変えることは、自分の使用する言語を新しい言語に変えるくらい大変なこととも言われます。
モラハラ加害者は、話している言語が違っており、今から新しい言語を習得していかなければならないようなものです。そう考えると、長い時間と根気が必要だということが想像できると思います。
自分を変えていくことに取り組み、その辛さを経験している人は、「俺は変わるから」なんて簡単には言えません。相手の言葉を鵜呑みにせず、行動をよく観察し見極める必要があります。
依存症としてのモラハラ

モラハラ加害者は、醜い、認めたくない自分の心性、葛藤を相手にぶつけることにより見えなくしよう、認めずに済まそうという「投影」という人間の防衛機能に依存していると言えます。
もちろん、誰でも「投影」をしてしまうことはあります。自分がうまくいかなかったことに対して、つい誰かのせいにしたり、八つ当たりしてしまった経験は誰にでもあると思います。その後は後悔し、その問題を乗り越えるために自分と向き合おうとします。
しかし、加害者は自分と向き合うことから逃げたいので、また「投影」に頼ってしまいます。
逃げた心の問題が大きくなるとまたさらに逃げるためにモラハラを繰り返すしかなくなってしまい、アルコール依存症の人がどんどん酒量がエスカレートするように、加害者のモラハラもエスカレートしていきます。

モラハラという依存行為のやっかいで難しい点は、アルコール、薬物、ギャンブル、浮気などに依存するよりも、非常に楽で快適だということです。
上記にあげたような依存行為は、他者にも見抜かれやすく、本人の体もボロボロになってしまいます。ギャンブルの場合は、借金をするなどして生活が破綻してしまいます。そして、自分が依存症であり、人生がどうにもならなくなってしまったことに気づく、「底つき体験」をします。この体験は、依存症の克服にはなくてはならないものです。
しかし、モラハラは加害者と被害者という密室のような関係で行われるため、第三者には気づかれにくく、また行為の結果の弊害が加害者に来ることもありません。モラハラという依存行為によってボロボロになるのは被害者だけです。
モラハラ上司・同僚の前に居続けることは、アルコール依存症の人の前に常にお酒があるのと同じ

被害者から「告発」や「モラハラ・パワハラ」という事実を突きつけられ、「モラハラをやめる」と加害者が決意をしたとします。しばらくは加害者もやめてみる努力をするので、職場は平和になるかもしれません。
しかし、被害者が加害者の目の前に居続けると言うことは、アルコールや薬物依存症者の前に、お酒や薬物を常に目の前に置いておくのと同じ行為です。
依存症の人たちが、自分の健康や社会的地位がダメになると分かっていても、再び手を染めてしまうように、モラハラも簡単にその方法に戻っていってしまいます。
また、モラハラには行為をしたところで,目上の人にはよく振る舞うため社会的ダメージが発生せず、「自分だけが悪いんじゃない」「モラハラはあいつが勝手に言い始めたんだ」「そもそもお前が怒らせるのが悪いんじゃないか」と再び依存行為を使うための言い訳を、他の依存行為より簡単に用意することができます。

依存症という視点からでも、モラハラをやめるということがいかに難しいことかわかります。
加害者から「もうしない、反省している」「変わるからチャンスをくれ」と言われたときには、再びモラハラを始める可能性があることを忘れずに、長い時間を待ち、つきあっていく覚悟があるかどうかを自分に問いかけてください。
調停や裁判でのふるまいを見ても、自分の行動を省みる加害者は少ない
弁護士として,モラハラによる離婚事件に立ち会うことがしばしばあります。
離婚問題でも職場でのモラハラの問題にも加害者には共通の特徴があります。それはやたらと被害者ぶるところです。
弁護士との話し合いの場で、突然泣き出されたこともあります。自分は家族、子供のことをいつも大切に思っていた。妻が家を出て行ったことなど信じられないと。。。
相談の時に依頼者の女性から聞いていた夫の態度とは全く違っていたため、戸惑いましたが、何度も交渉を重ねている内に本性を現します。
やはり、依頼者の言っているとおりの、自分のことしか考えないかなり自己中心的な人物であることが分かりました。その後は依頼者に対し、かなりの攻撃的な態度や嫌がらせと思われる態度を繰り返してきました。結局あのとき、泣いていたのも演技だったのです。

またあるときには、心療内科に通院し、妻が勝手に別居したせいで自分はこんなに精神的に苦しんでいると調停で訴えてきた人もいます。とにかく妻のせいで、精神的に落ち込み耐えられない、自分は被害者だ、、と。
このような加害者のふるまいを実際に見ていると、加害者は自分のことを省みることが出来ない人達だと感じます。人間は反省するからこそ、人間的にも成長すると思われるのですが、残念ながら加害者にはそういった要素は皆無に等しいです。
モラハラは「治る」のか?
これまで、モラハラ加害者が変わることの難しさを解説してきました。では、モラハラ加害者はモラハラを治すことはできるのでしょうか?加害者でも、自分がモラハラをしていることに気づき、「モラハラの治し方」を探す人もいるようです。
加害者に「自分は加害者だ」という自覚があるかどうかが、モラハラ加害者が変われるかどうかの第一歩です。
モラハラは病気ではなく、「自分の葛藤を人に押しつけることに依存してきた生き方」の問題なので、治ることはありません。依存症の人が治ることがないのと一緒です。
しかし、モラハラを「やめ続ける」ことは、本人の覚悟と「加害者更生プログラム」等の支援機関の支援によって、できる可能性があります。
ただ、被害者の方は「私がこの人が変わるのを支えなくては」と思う必要はありません。むしろ、被害者の方がそばにいることで加害者が変わるチャンスを奪ってしまうこともあり得ます。
「離れる・告発する」という決断は、加害者にとっても被害者にとっても、モラハラからの脱却、成長のチャンスなのです。ですので、どうか被害者の方は「もっと理解してあげれば良かった」「もっと支えてあげられれば良かった」と罪悪感を感じないでください。
まとめ

いかがでしたでしょうか。モラハラ加害者が反省し、モラハラをやめるということがいかに難しいことかご理解いただけたかと思います。
もし、加害者にモラハラをやめてほしいと告げても「自分は変わるから大事にはしないでくれ」と相手にすがられ、決心が揺れ動いている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし十分あるモラハラ再開の可能性に耐えられるか、相手が変わるまで、自分が加害者の葛藤処理のストレスの受け皿になりつづけることに耐えられるかをよく見極めていただけたらと思います。
モラハラ上司の言動は、放置すると精神的なダメージが蓄積し、仕事への意欲や健康を損なう原因になります。しかし、適切な対策を講じることで状況を改善できる可能性は十分にあります。
まずはモラハラの事実を記録し、冷静に対処法を考えることが重要です。信頼できる同僚や上司、人事部に相談し、必要であれば労働基準監督署や外部の専門機関へも相談を検討しましょう。
もし職場環境が改善されない場合は、転職も視野に入れることが選択肢の一つです。心身の健康を最優先にし、自分を守る行動を取ることが何より大切です。
参考文献
谷本恵美(2012)『カウンセラーが語る モラルハラスメント 人生を自分の手にとりもどすためにできること』 晶文社